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​ドホナーニ・エルネー Dohnányi Ernő について

作品発表時に名乗っていたエルンスト・フォン・ドホナーニ Ernst von Dohnányiの名でも知られるドホナーニは、ハンガリーのポジョニ(現スロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)生まれの作曲家、ピアニスト、指揮者、教育者である。優れたアマチュアチェリストであった父の手ほどきを受け、6歳でピアノを習い始める。わずか8歳にて人生初となる楽曲を作曲、9歳にて初の公開演奏を行うなど、幼い頃から神童ぶりを発揮した。

ブダペストの音楽院在学中である1895年に作曲した《ピアノ五重奏曲第1番Op.1》はブラームスから絶賛され、ウィーンでの演奏の機会をブラームスから与えられるほどであった。1897年に音楽院を修了し、ピアノと作曲のアーティストディプロマを取得。同年夏にプロデビューを果たす。

1897年、ブダペスト・フィルハーモニー(ハンス・リヒター指揮)とのベートーヴェンの《ピアノ協奏曲第4番Op.58》の演奏が評判となり、ロンドンデビューを果たした。ロンドンでの演奏は大絶賛されると共に、ドホナーニの名を一躍知らしめた。作曲者としては1899年に《ピアノ協奏曲第1番Op.5》によってベーゼンドルファー賞を受賞しており、1900年頃までに世界的な音楽家としての地位を確立した。

1905年からは、ベルリン音楽高等学校で教鞭を執り始め、1908年には教授に就任。ベルリン音楽高等学校で教鞭を執りながら、それまで通りに活発な演奏活動を展開した。

1915年、ドホナーニはベルリンを離れ、母校であるブダペストの音楽院において教鞭を執り始める。同音楽院では教育制度改革に取り組み、1919年には同音楽院院長となるが、政治的事情により半年で辞任させられてしまう。第1次世界大戦を背景とした政治的混乱の中で、ドホナーニだけでなくバルトークやコダーイも苦しい立場に置かれていた。しかし、そのような中でもドホナーニは活動を続け、1928年、再び音楽院に戻り、ピアノ科および作曲家の主任として指導に当たった。1934年には院長に返り咲く。

1937年、ドホナーニの60歳の誕生日を祝う行事が盛大に行われるが、1939年の第2次世界大戦勃発により、ドホナーニは再び苦しい立場に置かれてしまう。この頃から、ドホナーニはナチス勢力に対抗するようになり、その圧力に対抗して1941年に音楽院院長を辞任。

1944年になるとドホナーニは家族とともに祖国に別れを告げる。その後、ウィーン、リンツなどに移住しながら演奏活動を続けた。

1949年にはアメリカに渡り、フロリダのタラハシーに居を構えるとともに、フロリダ州立大学のピアノ科教授兼コンポーザー・イン・レジデンスに就任。フロリダ州立大学でのリサイタルのほか、様々な場所で演奏活動を行った。1953年、カーネギーホールにて演奏を行い、この演奏が大きな感動を呼び起こし、ドホナーニの評判を復活させるものであった。そして1956年のエディンバラ音楽祭において大成功を収め、コンポーザー・ピアニストとしての地位を復活させたのである。しかし1960年、ニューヨークでの録音中に体調を崩し、ドホナーニはレコーディングを最優先しようとしていたが、病状悪化により同年2月9日、82年の人生に幕を下ろした。彼の遺体はローズローン墓地に埋葬されている。

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